Rainy Blue

夜半から降り続いた雨は朝になっても止まなかった。
雨が降ればそれなりに涼を取れたりもするので、雨自体は決して嫌いではない。むしろ夏の長雨の後の晴天を思えば、好いていると言っても構わないかもしれない。
しかし、雨はそれが多分に日常的でない限りは、多かれ少なかれ予定を狂わせる。さらに言えば雨が降れば必ずしも涼やかになるかというとそれも否――湿度が上がって蒸し暑くなるなどさして珍しくもなんともない話だ――である。雨は雨粒と同時に、得と損をセットで降らせる。
ふとプリントが床に落ちた。それを拾い上げながら、お世辞にも健康的とは呼べない表情で唐突に考える。雨のもたらす損はもう一つ、空が暗い事だ。
もっとも、何かの拍子に紙切れが机から落っこちた事と空が暗い事の間に一体どんな因縁があるのやら。手を止めて窓の外を眺めると、お世辞はおろかどう頑張っても健康的とは呼べない表情を浮かべている自分が窓に映っていた。その自分が表情を変えずに眉だけがわずかに動く。
溜め息一つつく間に視線をプリントに戻すが、何となく作業を続ける気になれずバインダーにプリントを挟んで鞄に放り込む。後で片付けてしまえばいい。
さらに溜め息。「溜め息を一つつくと幸せが一つ減る」とか言ったのは誰なのか、まあそんなことはどうでもいい。
そう、別に雨に限った話ではない。能動的であれ受動的であれ、物事の変化――或いは物事を変化させる事――は常に得と損をもたらす。それは例えば最も明快な結果の成否だったり、変化の過程で支払った代償だったりするのだろう。
とはいえ、
風が吹けば桶屋が儲かる、なんて諺もあるし)
損得などというものはは全て表裏一体であり、また起は承転して結に到り、結は再び起となるというのが当然の道理である。
とどのつまり、解釈の方法次第であっさり覆される程度の算盤でしかないのだ。だからこそ一手一手を緻密に重ねる必要がある。行動は全て次への布石であり、結果は全て新たな起点になると心得なければならない。
(…………結局は、精神論にしかならないのかね)
知らないうちに、また溜め息がこぼれていた。
すべからく無意識は意識を凌駕する。そして人は無意識の思考を意識上に呼び出すのを苦手とする生き物であると同時に、意識的に思考を無意識に追いやるのも苦手とする……。
(だが、至って簡単かつシンプルに、思考を強制排除する方法が、一つある)
結局、こんな時に選べる選択肢などいくつもあるわけでもないのだ。さっさとそう思うと、腕を組んでうつむくように目を閉じた。